当事者から見える世界 〜 行政と支援のすきまで〜

OPENBASE居場所活動

先週会議に参加しました。

不登校や引きこもりに関する繋がりをつくる会議。

詳細ではなくそこで感じた雑感を忘れないうちに記事にしておこうと思いまとめています。まとめるなかで感じたことが言語化されてクリアになっていき、より自分のなかが整理できるという感覚もあります。

問題のきり分けができる人材の欠如

不登校は引きこもりにつながるという一般概念からなのでしょうか。国が決めたこの会議。

まずスタート地点からずれていると感じます。

もちろん100%関係がないとは言いません。多かれ少なかれ関係性はあります。不登校をこじらせることで引きこもりにつながっているケースももちろんあるでしょう。
しかし、一般概念とは別に事実としてみたとき、その割合はおそらく、家族の原因、体調、支援、医療、友達関係、勉強、など関連するその他多くのものと同程度のはずです。不登校→引きこもり、という印象を国が勝手に抱いているイメージを受けます。

行政としては、うえからの通知で動かなければならないシステムでしょう。せめて、そのなかで、問題の本質がいったいなんなのか見極めて誘導してくれる機関が相談者には必要なのに、それを「見極め、きり分ける」人材がいない。

どんないいつながり先があっても、そこが一番の問題であり、困っているひとから支援やサポートにつながるチャンスを無駄にしています。

問題の本質はなにかということへの思考停止

引きこもりが増えています。
不登校が増えています。
支援がたくさん必要です。会議や対策も必要です。
総数が増えたら現状の支援体制では手が回りません。

不登校。学校へ「普通に」いかせるまでにたくさんのケアと支援が必要です。やっと行きました。
でもしばらくして辞めることが多いです。

きっとそれは本人のほんとの意志ではなく「解決」しているからでしょう。こどもは親に喜んでほしいし、感情を読みます。
こういう方向にいくべきだと親が決めてきたことに、自立して家をでれる年齢でない場合、暗に従わなければならない。
だからこそ、おとなはそこの本質を見つけてあげられなければ、本当の意味で解決へ向かう支援はしてあげられません。学校にいった(=解決?)としても、また根っこの原因が関わるときに同じような動きになってしまうのです。

それまでの支援の労力や時間。もちろん支援にたどりつくことは重要なのですが、結果根本は解消されたのでしょうか。
おそらく、普通になることに頑張って、また行けなくなったことで自己否定感はより強くなります。余計に出られなくなることが多いです。

普通になることがそんなに大事だったか、そのときになってようやく気づくのです。自己評価をとても低くしてしまってからの社会復帰はおそらく単に学校行かないで、昼夜逆転しているのを放っておく場合よりも難しくなっていると思います。

何年もの頑張りのあとにさらに苦しむ段階へと落ちるならその数年は何なのでしょうか。
わかい成長期です。若くなくても大事な毎日です。

その毎日を何年も普通になる、ためだけに苦しむ方法を取らせてなんとも思わない社会の空気は、ホームスクールの人に教育の義務を果たしてない!という指摘よりこどもの人権を軽視しているということに気づかないのでしょうか。

問題は、その子がそのひとが<生きる>ことであるのにそこから行政も支援者も家族も目をそらす。おそらく問題の発端である本人が一番問題に向き合いたがっているのではないでしょうか。だからこそ苦しむ。

周りがそれを原因は家庭環境だ、発達障害だ、あの挫折だ、とラベリングする。たくさんのラベリングで支援対応することは増えます。

でも本質はなに解決していません。日本人すきな<やった><努力はした>で褒められる問題ではありません。8050問題といいますが、本質を見ずして、支援者は家族は80まで対象者を支援し続けますか?

本当の支援は支援がいらなくなる状態にしてあげることであり、その浮いた分の労力を本当にシビアに明確なサポートが必要な場合へと向けることであると思います。

現状では支援までたどり着けない人の層のほうが多いはずです。支援にたどり着いたケースのなかの問題事例が一番大変なケースではなく、その後ろにたくさん隠れているのです。

隙間に置いていかれる当事者

 

当事者視点から、行政や支援者を責めているわけではありません。各立場でできることをされているのもよくわかります。

ただ問題を当事者のリアルを見ずして相談してもゴールにたどり着かないどころか、スタート地点がまちがっていることもあるのではないかということです。

不登校に関して書いているので、ここで詳細は語りませんが比較的不登校家族という属性以外にもたくさんの当事者経験を意外に積み重ねてきてしまった実体験からいえることは、いつも当事者の問題を当事者抜きで決めることが多いということ。

当事者は支援される側、助けてやらねばならぬ側との位置付けがもやもやを残すのです。声がないのではないのです。当事者であるじきには、声をあげたり、それを俯瞰的にみたりする余裕がないだけなのです。
だからこそ、適切なサポートや支援につながらなければ長期化し、当事者から抜け出せない状態が続いてしまうのです。

別に会議好きでもない団体が会議に参加しているのはそこを伝えたいからです。当事者のまま、声をあげる状態になる。それはそれでものすごく疲れることです。
支援側の視点と当事者の感情が混在するからです。
ただ、当事者のことをサポートする施策を考えることに当事者知らないまま計画をしても、適切なサポートはできないでしょう。
それぞれの専門性を備えた機関や行政、どうせだったらその役割を活きるかたちで使ってほしい。
だって、これだけのリソースを民間でやるには持ち出しが多すぎて破綻してしまいます。だから続かないところが多いのだけれど、きちんと公的な対応に当事者がつながるためにも<なにが本当のデータか><なにが本質か>を避けてうわべのアリバイをつくるだけの支援じゃきっと対処できない総数の当事者が表にでてくる時代になってくるでしょう。

たどり着いた支援が実情をわかってないままのものだったら当事者も救われないし、明確な解決のルートもわからないまま、ラッキーに頼った成功例しかでないでしょう。
縁に恵まれた人だけが将来を描けるということになってしまいます。

 

家庭の責任、本人の責任を肩代わりするのが支援ではない

本来家庭で解決すべき問題が大きくなって、サポートを必要とするのは適切だけど、解決につながるかどうかにはひとつの鍵がある気がしている。

その家庭自体が「決めて」自分の意思で選ぶかどうか。小さな選択でも、自身でえらぶことを始めたケースは歩みは小さくとも解決に近づいている気がする。

いろんな支援につながるけれど、そこに解決を望む、行政に解決を望む、完全にお任せする、そういった場合に長期化している気がしています。

信頼をして任せると言えばそうなのかもしれませんが、結局最後に決めるのは自分であり、決めることには責任が伴います。それを家庭で受け止めず、本質から目をそらし続けると、ものごとが大きくなってしまう。家庭が考えるべき問題を<明確なサポートが必要な場合を除いて>外部がかわりに考えてしまうのは、苦しみ悩み、選択するというチャンスを奪ってしまうということであり、選択できる状況まで寄り添いはすれど、肩代わりをするようなかたちになってはいけないと思います。

うえにも書いたけれど、ほんとうに支援の心から動いていても80歳までサポートできないのは自然なことで。

普通になることではなく、「どうこの社会でいきていくか」に「その子にあった方法」をさぐりだしてマッチさせていく。本人を普通に変えたら、本人ではなくなってしまう。良さも消えてしまう。そのままではダメだよ、という否定のメッセージを暗に送ってしまうことにもなることに当事者以外は意外と気づかない。
言われたことができてよかったね、の褒め言葉が、ありのままを否定しているときがあることに。

ゴールが「普通になる」ための会議であるなら、いまのこどもたちが出ていく先であろう社会はもう変わってきているので、向かう方向が少し違うのではないかと思う。こどもの声がほんとうは大事だけれど、会議=おとなの範疇であること(現在は)と、声をあげれる状態になっている当事者団体の役目としては、KY覚悟で本音を伝えていくしかないのかなと思っています。

まとめ わたしが考える支援とは

当事者じゃないひとが当事者の考えを100%理解するというのは不可能な話で、それは自分自身だとしても他分野の当事者でないものに対しては、きっと的外れなこと言っているだろう、ゴールもスタートも違うこと口に出しているだろうとは思うのです。

だけど、唯一「当事者じゃないからわかってないんだよな」という自認はあるのです。

当事者側からみて思うのは、「わかってないのにこうするのが解決」と当事者に押し付けるような上からの立場です。
人材・資金リソースを持っているという経済的立場はもちろん上なのかもしれません。
けれど、情報に関しては「理解していない」ということを理解して関わるべきだと思うのです。
(=情報は当事者が上)

当事者は声がないのではなく、あげている暇がない。
サポートの足りない部分を目の前のこどもにやることが、声を上げるより優先度が高いから。
声をあげても、正しく取り上げられない可能性が高いものに労力をかけているよりも現実に対応した方が合理的だから。

声を上げる余裕もなく、福祉・医療・教育のサポートが本当に必要な零れ落ちている「現在進行形」の当事者を見つけにいく、のがリソースたっぷりのところならできるはずなのに。

医療・福祉として現実的に長期的にサポートが必要な場合を除いて、ひきこもり・不登校に関しては、80歳までフォロー機関を作ることではなく、「支援機関がなくなっていい状態にする」ことが支援であると思うのです。

そして、おそらくカウンセリングや現状把握を客観的にすべきは「当事者」よりも家族(身近な環境のひと)である気がします。
働き方改革やイエナやN高など教育も変わってきているなか、家族や、普通、社会、の在り方をわかものたちの時代に合わせて再設計していく時期なのではないでしょうか。

次回のOPENBASEは 2月7日(金)10時から12時
はっち3F  です。(参加費 1000円 こども 500円 )不登校勉強会には変わらないのですが、会議を経て思ったことがあり趣向を変えます。
内容は変わりませんが不登校で悩んでいる・悩み終わったに関わらず

・こどもたちの学ぶ環境がもっと多様に認められる地域にしたい!という隠れたパッションをお持ちの方(別に活動はしていなくても構いません)という条件を付けさせていただこうと思いました。

やりたいことを見つけたときに学校が必要で、そのためにどういう道が選べるか等の相談は乗れても、「学校へ戻す」「不登校を解決する」といった悩みに対応している団体ではないと客観的に理解したからです。
学校へ戻す支援を必要としている場合にはご期待に応える情報提供ができないため、双方の時間と機会の損失になってしまうからです。openbase8nohe@gmail.comまで参加申し込みお願いします!
こどもの体調等のドタキャンOKです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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