不登校の問題はこどもや学校の問題だけではないと窓口対応するひとたちが気づいていない件について

こちらのイベント無事終了しました。

振り返りに少し時間がかかり、文章にするまで間があきました。
よっぴー&まりんさんの講演会や、異文化理解のイベント中高生と大人の会、そして今回の会、先生との学びあいの会PTMなど、振り返ってみると、どうやら意外に短い間に結構なイベントや会をやってきたようです。

とはいっても、私自身主催に関心はなく、そしてイベント好きでもないのです。道の端っこを歩いていたいそんな人間です。体調がよいわけでもないし、大きな野望があるわけでもないのです。
青空になれば、からだの調子は良くて気分がいいけど、どこか元気いっぱいでなくてはならない健全さが疎ましくなることもあります。だからこそ、不登校の子の感覚に近いものを感じていたのかもしれません。

自分のこどもはホームスクーラーでいいや、と思ったところで

そんな人間なので、比較的ホームスクーラーや人と違う進路を選ぶこどもに対しての受け入れ感は早かったと思います。

最初のころは、一通りの「不登校対応としてよくない典型的な対応」もスパンは短めでしたがやっていました。学校行かないならって勉強させたりとか、行った日はこれOKとか。

今はもうわかっているけれど、それってなんのために必要だったのか。学校に行っていることが普通、から本来の生き方への移行期間として体験しなくてはわからない流れだったのはわかりますが、誰が主語で行動していたのか。決して「こども」や「自分」ではなく「学校」を主語にして動いていたのですよね。

そう考えるようになるのが比較的早かったにしろ、世間様の「社会に出て困るわよ」「進学どうするの」という声は相変わらずで、例えば大人なら今なにか無理やり結果を出せば周りを納得させられるのかもしれませんが、こどものこと、将来のこと。何年も先になってみなければ世間も自分も結果がわかりません。

いろいろなイベントは一つ一つの検証だった

学校行かないで大学行く人っているの?
それでも大学入れるの?




そんなロールモデルとしてのよっぴー&まりんさんだったし、先生は学校という場のなかで、親は家庭で、「こども」のことを考えて動いているはずなのだから、不登校にしたって相互の立場からなにか発見がないかなと思ってのPTM。異文化という関係なさそうに見える体験イベントは、国民性から宗教から外見から違うことに触れたら学校内で学ぶか、外で学ぶかって小さい違いじゃない?ということで。

結局、不登校を受け入れることのできる家庭から、偏見に満ちた社会にこどもたちは出て行かなければならなくて。であれば、受け入れたあとにわたしたちのできることは社会の側の認識を(全体でなくてもまわりだけでも)転換していくきっかけを作ることだけな気がして、活動やらイベントを続けてきたところがあります。

こどもであっても役職がある人でも時間とエネルギーは等価

常々思うんです。
道の端っこ歩きたい私と、教育などに関する会議に出てくる偉い人や役職のある人。
権威や学歴なんかはこちらがへりくだらないとならないのかもしれません。

でも、それそれの時間とエネルギーは平等なんだと思うのですよね。例えば相談窓口に行く。悩みを抱えて苦しくてエネルギーを振り絞っていく。そこへ行くエネルギーを絞り出すのって大変なものです。
ところが日常業務である窓口の人は、毎日の流れのなかのひとつとして対応をする。苦しい状態に陥っている人は、自分たちの不注意で甘さで陥っているから苦しむべきだとでも思っているのでしょうかね。

もちろん、甘えた相談やただの愚痴ならそれなりの対応でいいのかもしれません。ただ行政というある程度信頼を置いて相談に向かっている相手に対しては等価のエネルギーで対応するべきだと「民間」の私は思うのです。

そして時間。効率を考えずにいろんな課に回されたり、しっかりと理解がないことでいろんな書類が必要だったり、なにかの許可までに何日も何か月もかかったり。放置されたり曖昧にされたり。偉い人の時間と、こどもや偉くない人の時間は差があるのでしょうか。
鶴の一声で、なにかの許可が早くなったりOKが出たりする。




本来、なにかを助けるべき位置にいるひとたちの、他人の「時間とエネルギー」への軽視。これじゃ、こどもが何年か不登校になって、育ち盛りを家のなかで過ごしたり、体を壊して引きこもりになって無為に過ごす時間が何年になろうと、もったいないとか、そこをなんとか短くしたい、だろうなんて思わないだろうな、っていうのが今の感想です。

それぞれの地位、場所でできることは何か

私は、ノブレス・オブリージュ という言葉が好きなのですが、

安定した、困りごとがない職についているなら、この気概は持つべきだ、と思うし、自分もそこまでたどり着ける形を作りたいと思うのです。

こどものたちの未来を考えた時に、手に職、勉強、稼ぐことももちろん必要でしょう。と同時に、社会がもっと成熟するように今の大人たちが動いていかないといけないなと思います。それはなにも不登校に関してだけの意味ではありません。

道徳を説く、「社会に出て困らないように」という場であるはずの学校でこう。こどもたちはどこで学べばいいのでしょう。学校内に社会に出た人は少ないのに、「社会に出たら困るよ」と不登校を「困りモノ」扱いする。

学びに関して、先頭を切って音頭をとるべき学校や行政が、「そもそも」の問題の論点を理解していない。
だから、N高やルークスのような「学校のそとの学校」が増えざるを得ないのだなと思います。

そんな感想を公的なものには抱きつつ、いつもいろんな流れで関わらせていただくみなさんや、わかものたちには希望を感じます。大人が思うより、ずっといろんなこと考えているし、分かっている。
大人の方が勝っているのは経験くらい(人によるけど)。大人がもっと学んで、根本の原因を見つめられるようになることの方が、こどもの学びや不登校云々対策論じるより、ずっと近道かもしれません。